第257話 疫病、進化する

(どうして? どうしてトビーがここに?!)
煙の中のトビーは目を閉じ、痩せた肩をわずかにすぼめて、ぴくりとも動かない。
(休みを取った翌日、体から煙くさい匂いがしてた……教会に口止めされてる活動って、まさかこうやって煙の中に立つことなのか?)
モーフェイの視線が、トビーの腕に巻かれた赤褐色の腕章に落ちた。その印は、火の傍らにいる者たちの外衣のものとまったく同じだった。
(トビーの言う教会って、正火教だったのか? てっきりサンクトゥス教だと思ってたが……)
煙がまた立ちのぼり、トビーを包み込んだ。トビーの肩が二度ひくついた。むせたらしく、足元もふらりと揺れる。
(おいおい、前に強水の煙を吸ったときは涙が止まらなくなってたくせに、今度は煙の中に丸ごと突っ立ってるのか? 本当に燻製になる気か? 湿った草をくすぶらせた煙は、吸いすぎたら命にかかわるぞ。だめだ、引っ張り出さないと)
モーフェイは空き地の入口へ目を向けた。赤褐色の外衣をまとった二人が見張りに立っていて、その外にも入場を待つ列ができている。
「しゃんと立て!」火の傍らの、長い外衣の者が声を張り上げた。「火がお前たちの穢れを持ち去ってくださる! 耐え抜けば、身は清められる!」
その声が落ちるなり、トビーは全身をこわばらせて直立し、丸まっていた背中までぴんと伸びた。
(工房で呼んだって、あんなにまっすぐ立たないくせに……あの様子じゃ、俺が入っていったところで、一緒に来てはくれないな)
しばらくして、長い外衣の者が「次」と声をかけ、ようやくトビーは煙から出てきた。そして空き地の隅にいる、顔色の悪い女性のそばへ行き、何かを話しかけた。
(そういえば、家族と一緒に参加するって言ってたな。あれが家族か? ……まあいい、明日工房に来たらちゃんと聞こう)
モーフェイはもうしばらく眺めてから、板塀の隙間を離れ、治療所へ回り込んだ。
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治療所に入る前から、あちこちで咳き込む声が聞こえていた。
中は前回よりさらに混み合っていた。寝台はとっくに足りず、通路の両脇には藁のマットが敷き詰められ、その上はすべて人で埋まっている。
モーフェイは、水を張った洗面器を運ぶ職員に体を横にして道を譲った。足元のマットの男が、突然背を丸めて咳き込み、全身を震わせた。口を押さえていた手を離すと、掌が真っ赤に染まっていた。
モーフェイがガイじいさんを見つけたとき、相手はマスクをつけ、マットのそばにしゃがんで、患者のまぶたをめくって診ていた。
ガイじいさんは顔も上げなかった。「脇に立っとれ。邪魔だ」
そう言うと、あのくちばしマスクを取り出し、マスクの上から被って、患者の胸をひと突きした。患者はびくりと痙攣し、荒い息がゆっくりと静まっていく。ガイじいさんはくちばしを外し、次のマットへ移った。
「どうしてこんなに咳き込んでるんだ?」モーフェイは尋ねた。「前は血を吐くほどの咳は見なかった気がするが」
「病が前とは違ってきておる。熱と腫れに加えて、今は空咳も出る。血を吐く者が日ごとに増えとる。発症も早い。自分の足で入ってきた者が何人もおったのに、ほどなく起き上がれなくなった」
ガイじいさんは、隅に向かってあごをしゃくった。「あの列が見えるか? 全員、家で病人の世話をしとった者だ。マスクをつけずに看病しとるうちに、自分も倒れた。わしが聞いてみたが、ネズミ犬モンスターの影すら見たことがないそうだ」
モーフェイは、以前トビーが話していた噂を思い出した。病人を看病する者が次々に倒れ、マスクをつけていた者は無事だった、という話だ。
「それって……」
「人から人へうつるようになった、ということだ」
(……この病気、進化するのか? これじゃあ、ブラザーフッドがネズミ犬モンスターをいくら片づけても、病気は広まるぞ)
ガイじいさんは顔を上げ、モーフェイの顔に視線を向けると、すぐに眉をひそめた。懐からマスクを一枚取り出し、モーフェイの胸にぱしりと叩きつける。
「つけろ。わしのところには、お前に貸すマットの余りはないぞ」
モーフェイはマスクを受け取り、さっき血を吐いた男が、すぐ足元にいたことを思い出した。
(待てよ……マスクは俺が作ったのに、自分でつけてなかった? まさか感染したんじゃ……)
あわててマスクを結びつけると、治療所にある感染対策装置へ視線が向いた。
(あれがあるのにこの有様か……もしかして、今度の新しいやつには効かないのか?)
「ワクチンはどうなんだ? 前に、志願者の何人かは反応が軽いって言ってたよな?」
「軽かった者も感染した。しかも今回の型にだ」ガイじいさんは少し間を置いた。「元のやり方で作ったものは、新しいほうには効かん」
「じゃあ、今の病気に合わせて作り直すのは?」
「前はネズミ犬モンスターの黒い煙で試した。今回のは、病原がまだあれらなのかどうかさえ、わからん」ガイじいさんは鼻を鳴らした。「たとえそうだとしても、ブラザーフッドのほうに聞いてみたが、ネズミ犬モンスターは捕まえられても、捕まえたのが新しいほうか古いほうか、誰にも断言できんそうだ」
向こうから、ガイじいさんを呼ぶ声がした。ガイじいさんは応じ、立ち去る前にもう一度振り返った。
「くちばしマスクはまた試すと言っとったな。結果は出たか? ここには一つではまるで足りん」
モーフェイは口を開きかけた。
(あのくちばしマスクは42 EPかかった。今の手持ちは半分にも満たない。たとえ貯まったところで、混沌錬成がまた同じ選択肢を出してくれるとは限らない……)
隣のマットでは、また誰かが咳き込みはじめた。
「俺……俺のほうも、たいした進展はない。帰ったらまた試してみる」
ガイじいさんはうなずき、向こうへと踵を返した。
モーフェイは出口へ歩き出した。背後の咳の音が、ずっと後をついてくる。
(困ったな……やっぱり混沌錬成頼みになるのか? EPをもっと稼ぐ方法を考えないと)
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工房に戻ったときには、もう昼を過ぎていた。
「モ、モーフェイさん!」ミラは彼を見るなり立ち上がった。両手でドラムを捧げ持っている。「刻み終わりました!」
ドラムの表面には細かな銘文がびっしり刻まれ、継ぎ目にも隙間は残っていなかった。
「お疲れ。あとは俺に任せてくれ」
モーフェイはドラムを受け取って機構に取り付け、回転速度と紙送りを何度か調整して、ドラムが一周する長さを紙の進む距離にぴったり合わせた。
感光紙を一枚差し込む。
ドラムが回り出し、紙がそれにつれて送られ、現像剤が吹きつけられると、紙は反対側から出てきた。
図柄の輪郭が、少しずつ浮かび上がってくる。
「せ、成功です!」ミラはその紙を見つめて、思わず笑い出した。
モーフェイも長く息を吐いた。(やっと一つ、順調にいったな)
彼は紙を取り上げて、二度ほど見返した。「印刷の部分は、まあ片づいたな。次はスキャンしたあとのデータを印刷することだが、これはまずお嬢様のほうとすり合わせないとな」
モーフェイは通話符文を灯した。
「お嬢様、伝票プリンターの印刷部分ができた。次は商品データをつなぐ段階だ。データベースをどう組むかを話しに、そっちへ行きたい。バーコードの規則も一緒に持っていく」
「また、カウンターを半分も占領するのではないでしょうね?」
「大丈夫だ、新型はずっと小さい。カウンターの隅に収まる」
「それなら結構ですわ。では明日いらっしゃい。機械も持ってくること。あたくしがこの目で確かめますわ」
「わかった」
ミラが仕事を終えて帰ったあとも、モーフェイは作業台に残り、明日持っていくバーコードの規則と商品データの形式を急いでまとめた。書き出しては直し、直しては書き出す。
再び顔を上げたときには、窓の外はすっかり暗くなっていた。
地下室の階段から足音が聞こえた。ヴィクトルが上着を羽織って上がってきて、作業台のそばで足を止めた。
「ついてこい」
「今から? どこへ?」
「闇市だ。合成獣がいる」